「現実」とは何か?

現実とは何かを考えたことがあるでしょうか?

新聞や放送などのマスメディアではよく、「客観的な立場」とか「中立的な視点」とかいう意味のことが、報道の建前として言われています。だが、これは実現し得ないことだと思います。

人は観たいもの(だけ)を見ます。

信じていることが、その人にとっての「現実」なのです。

「客観的」という立場や見方があると信じられているのは、共同体に属する人々の最大公約数的現実があるからです。これがないと、人と人は意志の疎通や協力して活動することができません。

しかし、これとて、観たいものを見て、それが「現実」だと見なしていることに変わりはないのです。

人には人の現実があり、猫には猫の現実があります。同じ家に住んでいても、猫が見ているもの、感じていることと、人のそれとは違います。人同士でも程度の差こそあれ、同じことなのです。

当然、女性が見ている現実と男性にとっての現実に違いはあります。体の作り、メカニズム、脳の機能に異なる部分があるからです。もちろん同じ人間ですから、重なっている部分は多いですが、全く同じとは言えません。
同性同士でも事情は同じです。その意味において、人同士が完璧に理解しあえることは不可能でしょう。

そのことがわかってないと、理解されないからと言って批判したり、悲嘆にくれたりすることになるのです。

言葉による説明や論理的説明だけが、相互理解の道だとは思いませんが、言葉の裏打ちの無い現実など、社会生活を営む人間にとっては、ほとんど実用的価値はないのです。

だから、言葉が万能ではないと知った上で、言葉の可能性を信じて言葉を巧みに利用するしか、人と人が分かり合える方法はないと思います。

感情的なことや情緒的な部分は、言葉なしでもある程度は通じ合えることが多ですが、現実的な活動を協働して実行するためには、言葉は必要不可欠だと思います。

「阿吽の呼吸」とか「感覚で理解する」とかいうのがいいとか思っている日本人は少なくないようですが、それが可能なのは、あらかじめ共通する価値観と似たような状況で生活している者だけです。

それは相互理解するというより、共通する価値観や現実認識、感情、感覚などを、お互いが同じだと再確認しているだけの話だと感じます。それは相手や対象を理解するということとは、本質的に違うような気がします。

言葉が全てだと言っているわけでなく、言葉に裏打ちされた現実や現象が無ければ、それは人にとっての現実とは言えないということです。

言葉によって世界を分節すること、仕分けし分類し整理すること無しに、人が現実を認識すること、人にとっての現実を獲得することはできないのです。

ありのままに見ることや、見たことがそのまま現実になることなど在りえません。人が観るということそのものが、感覚器官と価値観や世界観を反映し裏打ちされているからです。

人と人、人と動物、人と植物、人と無生物の「違い」や「差異」を認識しその意味を考えることなしに、人を理解することや動物を理解することや世界を理解することはできません。

「理解」するということは、異なる資質や性格、特徴を持ったもの同士が、お互いを知ろうとすることであって、あらかじめ同じだと感じていることを再確認する行為ではないからです。


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価値観・考え方

Posted by desk@toiee.jp