認知症の母の反戦活動

僕の母は昭和2年生まれで、今年90歳になりました。認知症と診断され10年ほどが経ちます。

認知症が進むにつれて、日常生活でできることが少なくなっていきました。もちろん加齢による衰えもあるでしょう。まずは、物忘れがひどくなり、その日の食事のメニューも思い出せなくなりました。元々方向音痴で、ちょっと遠出をすると、今どの辺りにいるかわからなかったのですが、50年以上も住んでる町の中心部にいても、どこにいるかわからなかったときに、異変に気付きました。

話す内容もじょじょに同じことの繰り返し、特に若かった頃の昔の話しが多くなりました。そんな母が繰り返しする話のひとつに戦争体験があります。昭和20年8月に新潟県長岡市の市街地全域がアメリカ軍によって空爆されました。日本の家屋は木造なので、それを燃やすために開発したナパーム弾を利用した「焼夷弾」という爆弾を大量に投下され、市街地は一面焼け野原になりました。

母は当時17歳の女学生でした。爆弾が降り注ぐ中、妹たちと必死に逃げたといいます。長岡市の町外れには日本一長い信濃川という河が流れています。河川敷を含めると幅は2キロほどもあろうかという広い河です。そこに長生橋という長い橋がかかっていて、市街地を逃げ惑い、長生橋にたどりつき、今度はその長い橋を爆弾が降り注ぐ中、必死に渡って対岸の農村地帯に逃れて一命を取り留めたそうです。

先日、老人介護施設に入居してる母を訪ねたら、若い女性が母の話を熱心に聞き入ってました。話の内容は僕が子供の頃から繰り返し聴かされていた長岡の空襲の話です。その女性は戦争はもちろんまったく知りませんが、何回も繰り返す母の戦争の話を、ちゃんと聞いていました。たぶん、介護関係の学校に通っているか、介護に興味がある学生さんだと思います。ボランティアで施設の老人の話しを聴いているのでしょう。

母は若い女性に年齢を聞き、二十歳と知ると「それじゃあ、あなたは当時はこの世の者じゃなかったから、戦争は知らないよね」と言いました。壁に五重塔が黒くシルエットになった夕焼けの絵が掛かってましたが、母はそれを指差して「これは写真かね?長岡の空襲の写真かね?」と言いました。女性が違いますと答えると「空襲のときは、ちょうどこんな感じだったんだよ」と言いました。女性が確認するように「街全体が燃えてたんですね?」と言うと「そうだ」と答えました。

母の戦争体験の締めくくりは「戦争ほど惨いものはない。戦争で親兄弟姉妹がバラバラになり死んだ人も沢山いる。戦争だけはしちゃあならんよ」というフレーズです。

母の意識に「反戦活動」などは無いと思いますが、人生で一番印象に残っていて身にしみている体験なんだと思います。今戦争に肯定的な人達のほとんどは、実際の戦争を知りません。その多くは、戦争になっても戦地には行かない人達でしょう。でも、日本の国土が戦場になったら、72年前のように、爆撃されたら、母と同じ体験をし、大怪我や死ぬ人も多数でるでしょう。どんな理屈を付けても、戦争とはそういうものだということを、僕は母から学びました。

長岡の花火大会長岡の花火大会は、日本三大花火大会の一つです。1945年の8月1日の午後10時30分、長岡市にアメリカ軍の空爆が開始されました。敗戦後の翌年の8月1日に「戦災復興祭」が開催され花火が打ち上げられました。長岡祭りの花火大会は、毎年必ず平日でも8月2日と3日に開催されます。それは戦没者の慰霊のための花火大会が起源だからです。

 

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認知症について

Posted by 小林昌弘